たまにはこんな日もある

たまに、一日中不協和音が聞こえる日があります。

どんな音を出しても、きちんと響かない。自分には響いているようには聞こえない。響かせようと試行錯誤をすればするほど、音程はずれていき、深みにはまり、空回りをする。そんな日があります。

周囲の何が変わったというわけでもなく、単に、勝手に自分の心の中で色々とリハースするうちに自然と深く沈んでいくものなので、とても主観的な問題で、自分自身で解決しなければいけないことなのですが、こういう状況に対処するというのは意外としんどいものです。

まあ、こういうのは風邪みたいなもので、放っておけば自然と治るものなので、基本的にはあまり騒がずにじっと過ぎ去るのを待つのが常套手段です。

明日は朝10時頃から夕方までオケ練なので、楽器を弾いているうちにもとに戻っているのではないかと思いますが。

春だし、色々と心に憂いがあるのは仕方のないことか。。。

今日のアルコール度数:★★

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時間がない?

今週は月曜日が休みだったから、あっという間に週末が目前に迫ってきました。そして、年度末も。。。

やらなきゃいけないことはどんどんたまるのに、容赦なく時間は過ぎていくのです。

時に、「僕にもっと時間があれば。。。」と思うときがあります。

でも、何だかんだ言って、いざ暇になっちゃうと何をやろうと思っていたとかほとんど忘れちゃって、意外と何もしなくなるものなのですよね。

部屋の片づけなんかがその典型例。

試験前に突然机の周りを片づけ始めるのも同じです。「とりあえずこの机の上の散らかりようを何とかしなければ、気が散ってとても勉強どこではない」と思うわけなのですが、逆に、勉強しようとするきっかけがないと、机の片づけもやらなくなっちゃうんですね。

そんなだから、僕は人に頼み事をされても、なるべく「僕には時間がないから」と言う理由で断ることは避けるように心がけています。いざ時間ができたときに、何をするか忘れてしまうような人間が、忙しさを理由にするというのは、言い訳がましいような気がするからです。

結局、時間はないものではなく、作るものなのです。色々と融通を利かせれば、結構な時間を確保できるのに、単に面倒くさいと言う気持ちを、「時間がない」という言葉に置き換えて逃げるのは何とも短絡的で、失礼で、思いやりがありませんよね。

「最善を尽くした」が「時間が足りなくて」できませんでした。

という言葉、僕は最も使いたくない言葉の一つです。

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2種類の負けず嫌い

人は多かれ少なかれ負けず嫌いな側面があると思います。そして、負けず嫌いであるということが向上心につながり、物事の進歩を支える原動力になっていると思います。

自分自身、かなりの面で負けず嫌いだと思います、そして時に頑固だと思います。

でも、ふと瞬間に、クールな自分に立ち返り、客観的な視点で熱くなっていた自分を振り返ることもあり、そんな時には、何かその時の自分の姿が大人げないというか、馬鹿っぽいというか、あまり格好よくなかったかなぁ、と思うことがあります。

さらに、負けず嫌いであることに連動して、他者の成功、喜びを心から賞賛できなかったりする自分が許せないと感じることもあります。そんなときは、思わず「もっと心を広く持てよ」と自分に言い聞かせてしまいます。

負けず嫌いにはポジティブなものとネガティブなものと2種類あるのかもしれません。

ポジティブなものは、他者の成功を素直にすごいと感じ、その感動と驚きを自分でも実現しようと願い、その動機を自分の活力に還元できるという、非常に健康的なもの。

一方ネガティブなものは、他者の成功を見てひがみっぽくなりつつも、いつか見返してやると思いながら、負けまいとして一生懸命努力して、負のエネルギーを自分の原動力に変換するという、どちらかというとネクラで非健康的なもの。

ということは、僕の負けず嫌いは、どちらかというとネガティブな方に振れているということなのでしょうか。

いやですね。。。

小さい頃はもっと素直だったと思うのですが、いつからこんな性格が曲がっちゃったのかなぁ。。。

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研究職な理由

仕事でも研究でも、何かを作り上げている途中の段階、できるのかできないのか分からないけどとにかくやってみる、という初期のプロセスを少人数で進めていく段階がとても面白いと僕は感じます。

いったん何かができるという見通しが立ち、大きなプロジェクトを立ち上げて大勢の人数で一斉に動き出すという段階になってしまうと、必然的に大きな慣性力がはたらき、おいそれと方向転換ができなくなったり、個人の意見が言いにくくなったり、惰性で仕事をしてしまうという、何となくネガティブな側面を僕は感じるからです。

大きな人数で動いているときには、失敗も許されません。個人の失敗が全体の動きを止めてしまうリスクがあるからです。そうなると、作業を分担する個々は自分の仕事を安全方向に振り、堅実にこなしていくという傾向が生まれてくると思います。その結果、あまり野心的な試みをする余裕が無くなり、仕事の中にクリエイティブさを発揮できなくなるのではないかと思います。

明確なゴールがきまっている、ゴールへの見通しが立っているという仕事、例えばロケットを打ち上げる、みたいなプロジェクトでは、全員が一丸となることで大きな力となり、大人数でやる醍醐味が発揮され、これはこれで非常にやりがいがあり、達成感も大きいものだと思います。

でも、明確なゴールが見えにくく、それぞれの人が違ったイメージを持ってしまう可能性があるような仕事の場合には、これを大人数でやるということは、非常に危険だと思います。空中分解してしまう可能性があるからです。

だから、僕は現在の、まだ始まったばかりで、様々な可能性があり、創造的な研究という仕事をこぢんまりとした組織で推進できていることを嬉しく思っています。

こんな気持ちでいるから、僕は確立された技術を応用する仕事というよりは、まだ解明が進んでいない、分析が進んでいない分野で技術を確立することに興味があり、研究職という仕事を選んでいるのだと思います。

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これってモラ…?

なぜ人生というのは一度しかないのでしょうか。と、思ったことがあります。

たった27年間の人生でも、いっぱいやり直したいこと、他にもやってみたかったことがたくさんあるからです。

まずやり直したいことは、学生時代の自分です。もちろん、やり直したところで、日々、些末なことに悩み、勉強に追われる生活を繰り返すだけなのかもしれません。でも、今思うともう少し気の向くままに遊んでいてもよかったなと、ふと思うのです。

まあ、それで何かしら犠牲にすることもあるでしょう。今のような自分の好きな仕事もできなかったかもしれません。でも、もう一つの自分の人生としてはいいのかなと思います。

もう一つやり直したいことは、自分の職業に関することです。別に今の仕事が嫌いだとか、嫌になったとかそういうことではないのです。もっと他の職業がどんなものなのか体験してみたいという、純粋に興味の問題なのです。

もし、自分が文系に進んでいたらどうなっていたのか、趣味ということを貫き通してきた音楽をもう少し真面目にやって、芸術の道に進んでいたらどうなっていたのか。。。

そういう色々な人生シミュレーションを頭の中で描いていると、実際には机上の空論で、ちょっと美化されすぎているのかもしれませんが、それなりに面白くて、それはそれで充実しているんだろうなと思うのです。

僕が今につながる人生を歩む上では、理系であるということに強いこだわりがあったわけではありません。あえて言うならば、仕事に直結しているからわかりやすいなと思ったから選んだまでで、自分としては理系、文系、芸術という区切りに関係なく、全てのことに興味があったので、色々やりたかったのです。

もちろん今から、自分の趣味の勉強をするとか、転職するとか方法はあるでしょう。年上の人から見れば、まだ20代なんだから何だってできるよとか言う人もいるかもしれません。でも、少なくとも今の状況が悪いと感じていない以上、人生を何分割かするような行動を起こそうとは思わないのです。

だから、僕の生まれかわりがあと3人ぐらいいたらいいのになと思うのです。

こんなコト、今から言っていたらおじいさんになったとき、人生に悔いばっかり残るみたいで大変ですね。そもそも、おじいさんのモラトリアムなんて聞いたことありませんし。

まあ、少なくとも、僕はまだ精神的に大人になりきっていないのかもしれません。そして、欲張りなのかも。。。

何となく、そう感じます。

自分の気持ちと関係なく、年齢という数字ばかりがどんどんインクリメントされていくのは何とも残酷なことですね。

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