むかしばなし:AISB

AISBとはAmerican International School of Bamakoの略で,僕が小学校6年生の時に通っていた学校です.(バマコはマリ共和国の首都です.)

もはや20年近くも昔の話ですから,あまり記憶も定かではありませんが,その当時印象的だったことをリストアップしてみようと思います.

・英語

当然ですが,転校当初は全くと言っていいほど英語がわかりませんでした.だから,中学生用の(確か福武書店の進研ゼミのキャラが載っている辞書だった)英和・和英辞書を教室に持ち込み,わからない単語をひっきりなしに調べていました.

先生が話す言葉とかで,発音が分かってもスペルの分からない単語とかが出てきた場合にも辞書で調べてノートに書き取ったりしていました.今思えば,いわゆるdictationって言うやつをひたすらやっていたってことですね.綴りの難しい単語とかは,わざとアルファベット読みで順番に声に出しながら書いていましたが,今思えば,これは正しい綴りを覚える上では役に立ったかなぁと思います.

ちなみに,英語を母国語としないために英語が話せない子供向けには,ESL(English as a Second Language)と呼ばれる特別クラスが用意されていて,当時は英語の先生とマンツーマンで英語の文法やら単語やらを教えてもらっていました.

僕が好きだったのはScrabbleというボードの上にアルファベットを並べてクロスワードみたいに英単語をつくっていくゲームでした.授業時間中ずっと,先生と二人でやっていたこともありました.

ちなみに,英単語が分からないと全く意味不明な読書タイムとか,日記を書く時間とか,社会の勉強とかはかなり退屈でしたね...何言っているかさっぱり分からなかったから.

・算数

結構知られていることですが,アメリカの小学校の算数教育の進度は日本の学校よりも遅くて,日本人が高学年で突然アメリカンスクールとかに転校すると,算数の時間にはヒーローになれます.

同年代で比較すると,テストも簡単な計算問題ばかりだし,文章問題以外は特に英語が分からなくても問題が解けるし,おまけに日本人は九九の計算とかが速いのです(インド人は2桁の九九までやるらしいですが).

だから,算数の授業はいきなり飛び級して,年上の人達と授業を受けていました.

・教科書

教科書の違いはかなり印象的だと思います.まず,外見的にはハードカバーで頑丈,分厚い,重いです.全教科毎回家に持ち帰るなんてことは考えられません.カバンが壊れます.だから,結構ロッカーに「置き勉」してました.

何故そんな教科書なのかというと,何年も同じ教科書を使い回しするからです.裏表紙には使った日付と名前を記入する欄があり,歴代のユーザの名前が並び,たまに,ページには誰かの書き込みがあったりしました.

・Crayola

当時は「変な名前」と思いましたが,クレヨンを作っているメーカーの名前です.授業中は鉛筆以外には,何をするにもクレヨラのクレヨン,水性マーカーでした.アメリカの教育現場ではかなり強力なブランドなんだろうと思います.

・Apple II

学校の敷地の一角にComputer Labという教室があって,Computer Educationという授業では,Apple IIを使って授業をしていました.今思えば,Apple IIに触っていたなんて随分と貴重な体験だなぁと思います.

黒背景に緑色の字のモノクロCRTに5インチフロッピーでした.授業と言ってもかなり適当なもので,ロッカーから好きなソフトを持ってきて遊んでいればいいような楽勝授業でした.ゲーム的には,西部開拓のRPGとか,飛んでくるアルファベットをキーボードで打つタイピングゲームとかでした.

・バミューダ(ハーフ)パンツ

当時,小学生が履く半ズボンと言えば,あのかなりピチピチの短いやつしか知らなかったので,アメリカンスクールの誰一人としてあんな短い半ズボンをはいていないことに驚きました.

今でこそ,日本でも日常的に,もしくは水泳の時とかにバミューダ履いたりすることが一般的ですが,当時はまだ,普段着の流行にはかなり時差があったのだと思います.

なんか終わりそうもなくなってきたので,今日はここで一旦止めます.また,機会があったら書くことにしましょう.

AISB

http://www.aisbmali.org/

Crayora

http://www.crayola.com/

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ノスタルジア

いわゆる郷愁とか懐古,追憶ってやつですね.

僕の場合,異郷の地から故郷を懐かしむという意味での郷愁というのは,外国から日本という視点ではあったとしても,日本に住んでいて感じるということは,あまりないです.

結局,「ふるさと」と呼べるような雰囲気を持った土地で育ってはいなかったからなんだろうと思います.

昭和50年代後半に,それまで山林だったところを造成してつくった団地.学校は,いかにも戦後の工業規格で造ったような画一的な校舎.便利で機能的ではあっても,無味乾燥とした直線的な街並み.

僕の日本での原風景は,品川区の中延商店街,都心特有のゴチャゴチャとした街並みと,秘密基地を作りに友達とチャリを走らせた八王子の山林と造成中の丘ぐらいしかないのです.

だから,日本映画のワンシーンでありそうな,都会に住む主人公が故郷に里帰りして昔と変らぬ風景を懐かしんだり,趣のある校舎で旧友と再会する同窓会を開催したり,といった描写にとても憧れます.

昔の友達がそれぞれ故郷をあとにして,バラバラになっても,共通の故郷という絆のもとに再会できるのは,やはり故郷の持つ趣の違いに由来するのではないかと思うのです.

歴史を持つ街であればあるほど,その街の独自性があり,味わいも深く,愛着もわきます.だから,その土地で生まれ育ったことが他人とは違う特別な思い出となり,昔の友人らと抱く「同郷の念」というのはより強いものになるのだと思います.

隣の芝生は青いだけなのかもしれないけれど,夏休み,年末年始なんかに,帰省と称して新幹線やら,飛行機やらで故郷に帰り,実家でゆっくりとするというイベントが僕にもできたらいいなと思う.

親に連れられて親の実家に帰省することはあったけど,僕にとっては帰省じゃなくて「夏休みの旅行」だったからな.

ま,少なくとも実家を出なければノスタルジアもひったくれもないわけで...弟との2人暮らしをほっぽり出して,またどっかに住めばいいのかな.でも,家が空いているのに部屋を借りるのももったいないしな...

とりあえず,ないものねだりはやめとこうか.

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一人称

一人称って色々と種類がありますが,僕はまだ「これが自分の一人称!」と思って,しっくり感じられる一人称を発見できずにいます.

1.僕

僕はこの一人称を使うことが最も多いです.無難だから.でも,「僕」という一人称をあまり格好いいとは思ったことはありません.何となくひ弱な印象があるからかな.でも,自分は別に屈強なわけでもないから,「僕」ぐらいがちょうどいいのかもしれません.

ただ,やっぱり社会人としての公的なコミュニケーションをするときに,「僕」というのはあり得ないと思います.何となく,失礼な印象になるような気がします.親のことを「父,母」と言わずに「おとうさん,おかあさん」と言うような雰囲気でしょうか.

2.私

目上の人にメールを打つときとか,会社の公式な立場でメールを打つときとか,怒ってる感をアピールしたり,比較的よそゆきのコミュニケーションをするときに使うことが多いです.

漢字で書くと「わたし」なんだか「わたくし」なんだか区別がありませんが,文章で書くときは「わたし」のつもりで書いていて,話すときは「わたくし」と言うことが多いかな.

話し言葉で「わたし」というと,女性の一人称と解釈されうるからかもしれません.僕は「○○かしら(ん)」という言葉は便利なのでたまに使うのですが,「わたし」と組み合わせると,完全に女性言葉になっちゃうので,気をつけたりしてます.

でも,そんな恐れを感じなければナチュラルで優しく,良い表現だと思います.

3.俺

時々,これぐらい使った方がいいのかなぁと思うときもあるのですが,どうも僕のキャラではないような気がします.

ステレオタイプかもしれませんが,「俺様キャラ」という表現があるぐらいですから,なんとな~く,偉そうな雰囲気(ナルシズム)を感じてしまうのかな...

ある日から突然,「俺もそう思うよ~」なんて僕が言い出したら,「ちょっと人格変わった?」と思うかもしれません.

4.自分

「俺」よりは「自分」を使う頻度の方がはるかに高いです.「僕」ほど弱っちくなくて,「俺」ほどジェンダーがハッキリしているわけでもないからかな.でも,この一人称には,何となく体育会系(応援団系?)の雰囲気がつきまとうんですよね.だから,ちょっと違和感があります.

5.拙者

国語辞典によれば,「男子が自らをへりくだっていう語.主として武士が用いた.」とあります.何となく古風で面白く,へりくだっている安心感があって,ごくたまに言葉の潤滑剤として使うことがあります.

さすがに,ハットリくんじゃないので,常用していたら変な人と思われるかもしれませんが,「僕」(結局は下僕の僕なんですよね)よりは威厳があってへりくだっている「拙者」ぐらいの方がしっくりくるような気がします.

というわけで,結局何がいいのかよく分からないので,色々と使い分けてみて,周囲の反応を見てみるのも楽しいかなぁと思ったりしています.

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幸せは消耗品か (今日は長いよ...)

今までの人生を振り返ると,幸せを実感する瞬間というのは,それまでに持ち得なかったものを所有したり,未知なることを経験したりした時だったように思います.

ヴァイオリン教室で初めて楽器を手にして音を出したとき,父親の転勤でアフリカの地に降り立ったとき,初めて自分で買った車のキーをまわしたとき,小学校の教室で放課後にクラスメートに告白されたとき...

ただ,未知なることを経験する幸せと一言でいっても,手に入れるもの,経験することの「かけがえのなさ」によって,その幸せのインパクトは大きく変化するように思います.

例えば,お金を払って直接的に手に入れられるもの,経験できることは,お金が十分にある人にとっては深い幸せにはつながりません.なぜなら,お金さえあればいつでも手に入るという意味で,コントローラブルで再現性があり,いつでも再現できるとわかっていれば,「かけがえのなさ」など感じる余地がないからです.

くだらない話ですが,僕は大学時代にお金をためてやっとの思いで新しいパソコンを買ったとき,その夜は興奮してよく眠れなかった記憶があります.朝起きてからも,自分の枕元にちゃんとあることを確認して「夢じゃないんだなぁ~」なんて感慨にふけっていました.かわいい思い出です.

でも,今や新しいパソコンを買ったぐらいでは,幸せは実感できません.新しい環境を導入して,未知の経験をする喜びはあるかもしれませんが,手に入れるために払った特別な努力の大きさと,それまでの自分の水準からのギャップが小さい分,幸福感の深さ,持続時間が短いのです.

旅行にしてもそうです.小さい時には,一人で電車に乗って八王子から新宿に行くだけでも冒険でした.それまで大人にしか出来ないことと思っていたことを自分ひとりで達成できたことを実感して,とても興奮しました.

しかし,今となってはサラリーマンですから,お金さえ払えば飛行機に乗って好きな地にいつでも行けるぐらいの収入はあります.パスポートを手に入れる実感もなければ,空港で過ごす非日常な時間のワクワク感,離陸する飛行機でのドキドキ感もありません.海外旅行の勝手がわかってくるにしたがって,言葉が通じないかもしれないという不安感とともに外国の地に降り立つ感動もあまり感じなくなってきます.

ともすると,南極旅行に行ったとしても,子供の頃に降り立った新宿駅ほどの興奮がないかもしれません.

お金で手に入れることができ,かつ再現可能と予想できるモノ,経験というのは,すなわち消耗品なのだと思います.そして,どんどんと新しいもの,グレードアップしたものを手に入れ続けなければ,さらに鈍化していく幸福センサーを刺激し続けることができなくなっていくのです.

人は年齢を重ねるにつれて次第に幸せを実感できなくなっていくのかと思うと,ちょっと憂鬱な気分になります.両親の世代のように,戦後のモノのない時代に生まれ育ち,生活をするだけで精一杯だった状態と比較すると,スタートポイントが全然違うので,同年齢で比較したら,自分の世代はさらに幸福感の感度が鈍くなっているかもしれません.

自分にとっては,世界にある美味しいものを食べつくし,うまい酒を飲み干し,未知なる世界を踏破していくスピードが早すぎるような気がしています.活動限界まで,まだ少なくとも半分はあるであろう自分の人生のためにも,今からあまり幸福感に浸らずに,あえて苦労しなきゃいけないんじゃないかなんて,考えたりします.

でもどうなんでしょう,あまり悲観的になり過ぎなくてもいいのかもしれません.

世の中には,お金ではコントロールできない幸せがたくさんあり,コントロールできない以上,そう容易に全てを経験することはできないからです.そういった類ものは,そもそも「全て」という定義さえできません.

海外の地に降り立つ,電車に乗って各地を回り,お気に入りのカメラで写真を撮影する,こういったイベントは,再現性があってコントローラブルな,お金で買える消耗品的幸せです.

でも,どうでしょうか,旅先で異邦人を暖かく迎えくれる人々とのコミュニケーション,逆に旅先で困っている人を助けてあげて感謝される嬉しさとかいったものは,お金を払っても経験できるとは限らない,再現性の保証のない幸せです.

マスターカードのCMで有名な「プライスレス」とはよく言ったものですね.

旅行をしたての頃は,未踏の地に降り立つことそのものが幸せに直結します.でも次第に,旅先で起きる再現性のない経験に幸せを感じていくようになり,より幸せの本質に近づいていくのだと思います.

さまざまな人との出会い,その人から受ける愛情,さらに,自分がその人のことをいつまでも大切にしたいと思う気持ちは,とても希少でかけがえのないことです.人間の本質に迫る,とても崇高な幸せのカタチだと思います.

だから,僕はこれからますます,物質な豊かさより,人との出会いやコミュニケーションを大切に感じていくようになるのだと思います.

年齢を重ねるとは,人々にこういった心理的変化をもたらすイベントなのかもしれません.

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秒速5センチメートル

かなり知る人ぞ知る系かもしれませんが,「雲のむこう,約束の場所」というアニメーション映画を見て以来,ファンになってしまった,新海誠という監督の最新作です.

東京では3月3日から渋谷シネマライズで公開だそうな.残念ながら,3日は友人の結婚式で見に行けないけど,公開中に映画館で見ようかなぁと思っています.(ちなみに,第1話はYahoo!の期間限定配信で見てしまった...)

この監督の作品は,ストーリーもさることながら,独特のテンポで進む場面展開,風景の描写がとても素敵です.

誤解を恐れず端的にいうと,せつなく,あたたかく,透明感があってとてもピュアな感じ.胸が締め付けられるような感動のある,青春の1ページの物語です.(何がなんだかわからんという声も聞こえてきそうですが...)

というわけで,この趣向には僕のマニアさ加減と性格のナイーブさが非常に表れてますが,仕方ありません.僕はこういうストーリーが好きなのです.好きなものはしょうがない!

秒速5センチメートル

http://5cm.yahoo.co.jp/

雲のむこう,約束の場所

http://www.kumonomukou.com/

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