抜歯記念日

仕事も一段落したので,今日は会社をお休みして,口腔外科で親知らずを抜いてもらったりしました.

でも,歯を抜くってそんなに気軽にできることじゃないですね.改めて実感.

あ,ちなみに今日の話は読んでいてそれなりに痛々しい話です.

この歯そのものは1年以上前に歯医者に行ったときから,中途半端に生えていて,いつか虫歯になるかもしれないから抜いた方がいいと指摘されていた歯なのでした.でも,きちんと生えきっていない歯は歯医者さんで抜くのはできないと言われ,様子を見て口腔外科に行ってくださいと言われていたのです.

で,家の近くの総合病院の歯科で抜いてもらってきました.レントゲン写真を見て,歯の状態を確かめたあと実際に処置が始まったわけですが,麻酔の針はぷすぷすと5カ所ぐらい刺したかなぁ.はじめの1回が痛いだけで,後は麻酔が効いてしまって,針を刺しても全然痛くないのですが,変な感覚でした.

で,麻酔が効くまでしばらく休んで,いよいよ手術開始!まず最初に歯の上にかぶっている歯肉をメスでカット!で,歯全体が見えるようになってから,はじめはペンチみたいなものでつまんでグリグリしていたのですが,骨とくっついていて動かないため,骨を削るためにドリルみたいなものでグリグリやった後,ノミみたいなもの+ハンマーでカンカンと骨を砕き始めました.

何となく分かってはいたものの,ノミでカンカンやられると頭にかかる衝撃はそれなりのものですね.でも,先生曰く,時間をかけて電動のドリルでグリグリやって周りの組織にまで傷をつけてしまうぐらいなら,ノミで一気に割ってしまった方が骨への負担が小さいんだそうで...

最終的には,またペンチでグリグリと動かして抜いてしまいました.最後に,傷口を縫合して,ガーゼをかんで止血して終了.

結局,処置を初めてから30分ぐらいはかかったでしょうか.経験と評判のある先生なので,特に心配することもありませんでしたし,非常にスムーズに終わったと思います.

自分の頭で考えても,これ以外の方法はないだろうし,外科というのはそれなりに素朴な処置法なのですね.麻酔が切れてからは多少鈍痛はするものの,腫れることもなく経過は順調です.しばらくは食事がしにくいですが仕方ありません.

幸いにして楽器を持つのとは逆の右側の上あごなので,今週末のオケ練は問題なく参加できそうです.

というわけで,抜歯記念日.2本目の親知らずが抜けました~.

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抱負

最近,ちょくちょくヴァイオリニストが演奏するDVDを見ます.

まあ,とても勉強になるからなんですけど.これが同じ楽器かと思うようなテクニックと正確さ.見るたびにため息が出ます.ヴァイオリン弾くんだったらこれを目指さないといけないよなぁと,僕は思います.

それでこの頃,一人で楽器を演奏することの重要さにも思いを巡らすことが多くなりました.

もちろん,沢山で演奏することは楽しいし,アンサンブルの能力を高めたり,周囲に気を配りながら演奏できるだけの懐の広い演奏ができることの重要さは,それまでソロでしか演奏してこなかった人間として,大学オケや社会人オケに入って身にしみて感じてきたことです.

でも,やっぱりそれだけでは物足りないと,レッスンを始めたり,発表会に向けての取り組みを通じて,どこかで感じてきました.

単なるスケールをやっても,ポジション移動が安定して決まらなかったり,ポジションごとの指の間隔がしっかりと身についていないことが不満だし,早いパッセージで右手と左手がちゃんと同期できないことも不甲斐ない.

左手が出来ていないと,3度,8度とかのもっとも基本的なスケールでさえもがたちまち崩壊するので,すぐにわかります.

今まで何となく見て見ぬふりをしてきたものが,今になって急に目の前に見えてきた感じがします.目標を持って達成することは気分がいいし,モチベーションを維持する上では重要だけど,中途半端な状態で区切りをつけてしまったり,何となく弾いた気になってしまっては,僕は自らの技術の進歩という点で物足りなさが残ります.

一朝一夕で出来るようなものではないですが,僕の中では,とりあえずはスケール,アルペジオだと思っています.指板の上で自由自在にポジション移動できる左腕と,各ポジションで正確な音程をおさえられる左手,難しい運指でも均等なリズムで打ち下ろせる俊敏な左指,低い弦のハイポジでも弱々しい音にならない安定した左指,どれをとっても,欠くことの出来ない基礎中の基礎です.

楽器がシンプルなだけに,求められていることも簡単明瞭.その分,条件を満たすことは難しいし,出来ていないことがすぐに露呈するという点で,非常にシビアです.

こんな純粋で透明で,感動的な和声展開が夢のような音楽が目の前に楽譜として存在するのに,その10分の1も表現できない自分の技量が,楽器や音楽に対して申し訳ないと,昔練習したバッハの無伴奏を引っぱってきたり,CDで聞いていて思いました.

僕が最近気に入っているのは,ミルシテイン,ハイフェッツ,そしてムターです.僕の好みは,敢えて言うならば,キレイ,サッパリ,シッカリ,正確,無駄がない,これに尽きます.

ムターがカラヤンと1984年に録音したベートーヴェンのコンチェルトは特に素晴らしいと,僕は思いました.

    • 最後に,ハイフェッツの言葉から —

練習というのは,どうしてもやり遂げなければいけないという気持ちからするものです.練習は人生にとって,生きていくためにも重要なものです.実際,練習は人生を楽しむためにこそ大事だと私は思います.

そのためには少々のことは我慢しなければいけません.手にすることができるものにも目をつぶらなければなりません.

つまり,欲しいものもいくつかに分けて手に入れることです.一度に全部を取ってしまうのではなく,明日に少し,そしてその次の日に少しというふうに小出しにして,最後に全部を完全に楽しめるようにするのです.

私たちは安逸をむさぼりすぎています.実はそれが夢を見ることを妨げているのです.この安逸に囲まれた中で夢見るということは普通ではできません.大変難しいことです.

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マイ箸

今日は演奏会の後,敬老の日のプレゼントを買うためにデパートでお買い物.

ふと思い立って,マイ箸を購入しました.

エコロジーライフってのも理由になりますが,僕が考えていることは,薬品で処理されている割り箸はどう考えても危険だよなぁということ.

今まで,箸を持ち歩く習慣がなかったので,どこまで続けられるかはわかりませんが,自分の健康のためにも,箸ぐらいは持ち歩こうと思います.

それに,これも僕の好きな日本製の手工芸品.紫檀で漆塗りの箸です.ちょうど良い太さと軽さが手にしっくりとなじむ感じでイイ.木目も自分の好みのものを選んで,箸箱とセットで購入しました.

そしたら,ふと目にとまった扇子も気に入ってしまい,おもわずお買い上げ.なんか,和の文化もなかなかいいものだと思った今日この頃です.

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気持ちの問題

ま,一応発表会も終わったことですし,ひとこと書いておきます.

楽器を弾くことは,自分にとっては自分の限界を見るための方法の一つだったりします.今回の演奏だって,自分にとっては限界ギリギリだったんじゃないかなと思います.

自分の限界が見えるってことは,あんまり嬉しいことではないですが,年齢を重ねれば必然的に見えてきてしまうもの.それを受け入れながら自分は年齢を重ねていくのだろうと思います.

伸びしろは年々減ってきているとは感じるものの,限界を目指して何も変化がないということはありません.少なからず成長するものです.

少ないながらも進歩していくことに喜びを感じるから,一時はやめていた楽器を再び手に取り,学ぼうと思うようになったのかもしれません.

こういう芸術の技能というのは,突き詰めていけばいくほど,奏者ごとの生まれ持ったセンスや才能の差異が露呈してきて,努力ではどうにも補えない領域が見えてきます.そういうことに気づくと,時に自分の努力が虚しく思えてきて,「所詮...」と思ってしまう瞬間があります.

かつて子供時代にレッスンを受けていたときは,そんなライバルが同じ教室にいて,なんとも残酷な現実を思い知らされた記憶があります.

まあ,昔から僕は音楽は趣味と割り切ってはいたのですが,やるからには上を目指すのは,自然な人間の心理なわけで,結構悔しい思いをしたのは事実です.

でも,社会人になって再び楽器を手に取ったときは,少し気持ちが変わっていたのかもしれません.それまで,人より自分が上手いとか,人によく見えるようにカッコつけて演奏しようとか,自分の位置づけを人との相対的な関係で決定しようとしていたのですが,ある時から,自分主体で,今の自分を基準に,より上を目指そうと考えるようになったのです.

他人の悲しみや苦しみを代償として自分の幸せを得るような生き方だと,自分の幸せを素直に喜べないし,自分が負けたときには非常に苦しいし,悲しい.でも,自分主体で考えるようになると,他人がどう見るかは意識しなくてもよくなるので,自分の努力の過程でとっても気が楽だし,例え自分が幸せになったとしても,他人を不幸にするようなことがなくなるので,気兼ねなく向上心を持ち続けることができるのです.

発表会もそうかもしれません.他人にどう見られるとか,演奏を失敗しないように,いい格好をしないといけないとか,自分を他人の視点から捉えようとするから異様に緊張するのだと思います.自分はこういう演奏をしたら嬉しいとか,楽しいとか,幸せだというイメージを心に描き,その幸せ感を,よければ共有しませんか?という気持ちぐらいで演奏すると,人前で演奏しても,全然緊張しないのだと思います.

まあ,格好つけな若いときは,こんな心境にならないのが当然で,若ければ若いほど緊張をバリバリに味わうものなのかもしれません.

ある意味,自分はそれなりに年取ってきたってことなんでしょうね.

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暗譜のテクニック

そんなものがあるなら僕も教えて欲しいぐらいですが...

「どうやって覚えたの?」と聞かれても,「自然と覚えていました!」ってぐらいしか答えようがありません.

でも何となく言えるのは,楽器を弾くという感覚は,楽譜の視覚的なイメージと,メロディーの記憶,楽器を持って演奏しているときの体の運動の感覚が全て統合されて,はじめて実現されているということです.

暗譜をするということは,要するに楽譜の視覚的イメージという手がかりがなくても,演奏できるようになるということであって,視覚的イメージがなくなった分,身体の運動の感覚で曲を覚えているような状態に近いように思います.

頭の中で,どの弦の何ポジで何番の指を押さえる云々...と考えても全然曲を思い出せないのですが,楽器を持って演奏をする姿勢になり,あるフレーズを演奏するために,体を動かし始めると,その次のフレーズに相当する身体の運動が自然に続いて出てくる,という感覚です.

だから,体の感覚で演奏している状態で,ふと楽譜に書いてあることも加味しようと楽譜を見,視覚イメージも統合しようとすると,混乱して,演奏が続けられなくなったりします.楽譜を見なければ演奏できるのに,楽譜の通り演奏しようと意識すると,演奏できなくなるという,不思議な感覚です.

世の中には,目の前に楽譜がなくても,楽譜の視覚的イメージが脳裏に思い浮かんで,それを見ながら演奏する,という方法で暗譜している人もいるかもしれませんが,僕はどうやらこの方法ではないようです.

弾けないところを何度も何度も練習していたら,楽譜を見なくても,少なくともどう弾かなければいけないかぐらいは自然と覚えてしまいます.あとは,その理想通りに体が動くようになるまで練習をするってことになり,そんなことを繰り返してたら,自然と体が覚えてしまうというのがストーリーです.

楽譜を見ないまでも,視覚もフル活用してより万全を期するなら,自分の左手を見つめながら演奏すればいいのではないかと思います.身体運動の感覚だけでなく,曲を演奏するときの左手の運動の視覚的イメージもが手がかりとなって,より安定的に曲を覚えることができるのではないかなぁと,思います.

僕は自分の左手を見つめてしまうと,ムカデのように動いている自分の左手が自分の手ではないような奇妙なものに見えてきて,ふと我に返ってしまい,演奏に集中できないことが多いので,あまり見る習慣がないのですけれど.

というわけで,ずーっと演奏していれば,そのうち覚えます.というのが,テクニックでも何でもない,僕の暗譜の方法なのです.

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