春の京都観光

月曜日に京大でシンポジウムがあり、今日は昼ぐらいに東京に帰ってくる予定だったのですが、天気が良かったので、予定を変更して、観光をしてきました。

まだ桜も咲いていないので、観光客は少ないかと思いましたが、予想以上の混雑で、バスも人がいっぱい乗っていて、結構移動が大変でした。

今日まわったのは、金閣寺、仁和寺、嵐山、そして、伏見稲荷です。

京都を真面目に観光したのは、おそらく中学生の時の修学旅行以来だと思います。

修学旅行の時は金閣寺に行く時間がなかったので、まず金閣寺には行きたいなーと思っていたのが、1つ目の理由。そして、修学旅行の時に買った伏見稲荷のお守りをいまだに持っていたので、そろそろ返納したいと思ったのが2つ目の理由でした。

もう20年近くも前のお守りですから、かなりボロボロなんですが、光を反射させると文字が浮かび上がる鏡と、2匹のキツネがデザインされた金属のお守りで、何となく珍しかったので、無くすこともなく、筆箱に入れっぱなしになったまま、高校、大学、会社、留学中と、ずっと一緒にここまで歩んでくることができました。

長いこと持っていると愛着が湧いてしまうのか、いざお別れとなると物悲しかったのですが、まあ、元あった場所に戻すのならば、それはそれでいいかなと思い、伏見稲荷の納札所に納めてきました。

伏見稲荷はどちらかというと商売繁盛の神社ですが、そのお守りは健康祈願のお守りでした。説明書きには、毎年交換して下さいという内容の文面が書いてあったので、さすがにご利益は弱ーくなっていたのかもしれませんが、今までの自分の健康を守ってくれたことに感謝してお別れしてきました。

同じものがあったら新しいのを買って帰ろうかと思いましたが、さすがに売っていませんでした。代わりに、いくつかの違うお守りを買ってきました。

今度、このお守りを返しに行くのは、自分が何歳になった時になるのでしょうかね。。。

カテゴリー: 旅行 | コメントする

島国にっぽん

日本にいると、不思議なもので、全然世界のことを意識しなくなります。

スイスにいたときは、普段からもっと世界の動きが見えていたような、肌で感じていたような気がするのに、最近は日本にいて世界のニュースと言ったら、中国の尖閣問題、アメリカとのTPP交渉、朝鮮半島、時々アフリカ、みたいな感じで、新鮮味がありません。ニュースを聞いても、なんかはるか異国の出来事みたいに聞こえて、全然今の自分の生活と連続性を感じません。

改めてこんなことに考えを巡らせたのは、大江戸線の麻布十番と六本木付近でやたらと海外の乗客が増えて、そこらじゅうがいろんな言語の会話で溢れかえったので、何となく昔の記憶が蘇ったからなのかもしれません。

日本では、世界のことを全然意識しなくても生活できてしまうので、あえて情報を集めないといけないという感じです。ただ、日本の情報もあふれかえっている中で、さらに世界の情報となると、もう満腹感でいっぱいです。

中途半端に日本は大きい国なんだなと思います。

世界の流れを知らなくても、日本の中に目を向けていれば、いろいろ考えを巡らせるだけの情報が溢れているのです。日本のことだけ考えていれば、生活の基盤も築けるし、それなりに、安泰に、一生生活できそうな感覚があります。

そりゃ何でもガラパゴス化するわな、と感じます。

もちろん、研究をしていれば必然的に参照する論文は海外のものであって、逆に、ほとんど日本の論文には目を向けないので、世界のことを意識していないわけではないのですが。。。

ただ、普段の生活の面では、日本という国が安住の地すぎて、あえて外に出ていく必要性を感じなくなっていきそうな自分が恐ろしいな、と感じたまでです。

カテゴリー: 生活, 自分 | コメントする

精神論ぽいけど。。。

自分が現役の時には考えられなかったような博士課程進学率の現在は、ノリで、何となく進学しているようにも感じられる雰囲気の学生さんが多く、まさかモラトリアムの延長で進学を選択していやしないかと感じ、彼らの将来は大丈夫なのかと、少し心配になってしまいます。

ゆるゆるの課程で名ばかりの学位を取得して卒業してしまったらなおさら、世界の先端の学際的な研究コミュニティに立ち向かっていくには戦闘力が足りないのではないかと感じたりもします。

まあ、卒業後に日本企業に勤める選択をするのならば問題ないのかもしれませんが、学位取得者が特段優遇されない日本企業に勤めるんだったら、わざわざ博士課程に進学する意味って何だい?と聞きたくなってしまいます。

大学のような、学問に関する研鑽を積む場にあっては、どれだけ自分より能力の高い人、凄い人、自分にはとてもかなわないと思える人に出会えるかが、そのキャリアを無駄にしないための重要なポイントだと思います。そして、そのパワーに圧倒され、自分の弱点に気づくこと、それまでの自分という人間の負の特性を知ることに、その時間の価値があると思います。なぜなら、ネガティブな自分を知らなければ、成長も望めないからです。

大学の研究の場合であれば、直接その人に出会うということもあるでしょうし、論文を通して優れた研究様式を知るということもあるでしょう。世界中で競争し合うスピード感、緻密な観察、正確な研究プロセス、逃げのない論理性、妥協のない完備性、情報整理能力、物事の本質を見抜く洞察力、一段抽象的にものをとらえられる考察力、こういった、研究者にとって欠くことのできない精神力を鍛えられるかどうかが、博士課程に進学し、駆け出しの研究者として認定されることの本質だと思います。

いい加減な自分、逃げる自分を咎める人がおらず、心地よく、生ぬるい環境に自分の身を置いたら、それは、人生を無駄にしていること、もしくは自分の衰退を助長していることだと感じるぐらいの方がいいと思います。自分の研究者としての適性を知らずに、間違えて卒業してしまうことを避けるためにも、モラトリアムの延長とは対極にあるべきものだと思うのです。

まあ、他人に言わせれば、かくいう自分も、このモラトリアム人間に属しているのかもしれませんので、今は他人の心配より、自分の心配をしないといけないのかもしれませんが。

カテゴリー: 研究, 自分 | 1件のコメント

真空管アンプ

冬場は暖房代わりにもなるし,ほのかなオレンジ色の光がやさしいし,真空管アンプが恋しくなる季節です.

夏場じゃこうはいきません.ただでさえ冷房を使っているのに,同じ部屋で発熱する機器を使うなんて電気がとても無駄だからです.

電源を入れて,ヒーターが温まるまで約5〜10分待機.こんな悠長な使い方をする機器をこの忙しい時代に使っているのも,だいぶ変わった人間だと思います.真空管そのものにしても,電球と同じで使っていけばそのうち電熱線が切れてしまうので,半導体と比べると明らかに消耗品ですし,非効率です.

でもたまらないのです,早く音楽を聞きたい気持ちを抑えつつ,真空管が温まるまでの時間を,オレンジ色の光を眺めながら待つのが.

得がたい環境に置かれて初めて,得られることのありがたさを感じるのでしょうか.

カテゴリー: 技術, 音楽 | コメントする

大掃除

年末年始は、ひたすら実家の自分の部屋を大掃除していました。

恐らく、5年ぶりぐらいの大掃除です。しばらく部屋を使っていなかっただけあって、よくもまあこんなガラクタをとっておいたなぁと思うものばかりが山積みになっていました。。。もちろん、当時の自分にとっては大事なものばかりのつもりだったのですが、やはり5年も経つと技術が進歩して、代替技術が生まれてしまい、まったく必要なくなってしまうのですね。

典型的なのは、アナログ地上波テレビ放送に対応した機器達です。CoCoonなんかは、ソニーのひとつの歴史的な製品だと思っていたので、捨てないつもりでしたが、やっぱり邪魔なのでバラバラに分解して捨てることにしました。もうひとつはロケーションフリーのサーバです。これもソニーならではの個性的な商品だったのですが、今では様々なテレビチューナーデバイスが出ていて、PCで同じことができるので、要らなくなってしまいました。まったくもって、もったいない。

ちなみに、気に入っていた製品を捨てるときには、お世話になった機器達の供養のつもりでもあり、資源ごみをきちんと分別するという意味もあり、完全にバラバラに分解してから捨てています。何だかんだ言って、子供の頃から機械の分解は好きで、自分にとっては楽しみの一つなのです。そもそも、機器を色々と分解していると、機械がどう組み上がっているのかが分かってきて、分解手順の勘が身につきますし。

一方で、分解していると、色々なことを感じます。今とまったく異なる設計コンセプトを知って驚いたり、その古風さに古典を読んだ時のような感慨を持ったり、今なら洗練された部品が揃っているから、もっとシンプルな設計になるのに、当時はずいぶんと頑張って標準サイズの部品を無理矢理組み込んでいたんだな、とか、この機器はビデオ屋とコンピュータ屋が協力して設計したからこんなに設計思想に個性が出て混ざっているんだなとか、色々です。

昨年は何台か最近のiPodを分解してみたりしていたので、その設計を見た印象が頭にあって、何かにつけ比較することになり、いい意味でも、悪い意味でも、当時の日本製品は、今のAV機器の設計とは雲泥の差だなと感じました。具体的には1990年代後半から2010年ぐらいの電化製品の設計思想の変遷を目の当たりにしたことになるでしょうか。

1990年代後半のからくり人形のようなMade in Japanのメカを見て、当時の日本の生産現場の工員さん達の技量に感動したり、これを続けていたら、少なくともデジタル化の進んだAV機器に関しては、東アジア諸国やアメリカに負けるのは、必然だったのかもしれないと思ったりしました。

この感覚、終戦末期の日本軍の戦闘機開発の逸話を読んだときの感慨に似ています。要するに、新しい技術から遡って考えると、昔の技術は明らかに生産効率が悪く、職人技に依存しすぎているということなのです。戦闘機の例で言えば、日本軍の戦闘機は最後まで組み立て効率の悪いマイナスねじを使っていたのに対して、アメリカ軍の戦闘機はプラスねじを使っていたという逸話があります。(ドライバーをネジに合わせるまでに、平均でどれだけ回転させる必要があるかを考えても、トルクがどれだけ伝達できるかを考えても、プラスねじの方が有利です。)当時、戦闘機の設計をしていたある技術者は、墜落したアメリカ軍の戦闘機の設計を分析して、その生産効率の違いに敗戦必至を覚悟したという話を何かの本で読んだことがあります。

確かに、Made in Japanを実現してきた日本の生産現場の技術力は高く、目まいのするようなからくりでも難なく組み込む技術力を有していたのかもしれません。これは、明らかに世界に胸を張って誇るべきことだと思います。しかし、逆にそれが仇となって、技術の熟達していない一般人でも製品を組み立てられるようにしたり、繊細でアナログな機器の最終調整をする必要を無くすなどの、技術の単純化、効率化といった改善に無頓着になってしまったのではないかと、私は想像します。

というわけで、今の時代、技術のシンプル化、効率化は、世界と競争していく上で避けて通れない道なのでしょう。しかし、パソコンの使いすぎで漢字を書けなくなったり、携帯の使いすぎで電話番号を全く覚えなくなっているのと同様、効率化を進めれば進めるほど、人間の基本的な能力が何か、根本的に低下していっているような気がして、本当にいいことなのかなと思います。そして、代替技術があるから必要ないとは言いつつ、一度は一世を風靡した技術が失われていくのを目の当たりにするのは残念なことです。

カテゴリー: 技術, 文化 | コメントする