公聴会

CNNのサイトで公聴会の中継をしていたので、豊田社長の証言を聞いていました。

思うところは色々あります。

アメリカ人は、何かの議論を始め、ある立場に立ってしまうと、ありもしないことをさもあったかのように平気で述べたり、別の原因であったかもしれないのに、さもあることが原因であるかのように決めつけて話す傾向があるので、ショッキングなことを単刀直入に言われてもすぐには真に受けず、言うべきことを正確に述べ、冷静さを失わないことが重要だと思いました。(湾岸戦争の時の架空の大量破壊兵器の存在がそのいい例です。)

ただ、話半分に聞いているという気持ちを態度に表してしまうとおしまいなので、あくまで誠意を示すことが必要ですが。

さらに、こういうバッシングに格好のネタが提供されると、根掘り葉掘り事例を探し出してどこの誰だかわからない証人を連れてきたり、それまであまり深く問題だと思っていなかった人も便乗してクレームを出し始めるので、これまたアメリカらしい、付き合いづらい文化だと思います。

トヨタはあれだけ北米でマーケットを広げていたのに、この後手後手の釈明は何ともらしくないと思いました。対応が後手に回れば回るほど不利な状況に追い込まれることはわかっているだろうに、慎重に対処しすぎたのかもしれません。まあ、大企業になればなるほど慣性がはたらいてフットワークが重くなるのは宿命ですが。

そして、アメリカの議員達を言い負かすことのできない英語力の弱さが、非常に歯がゆかったです。今回の場合は言い負かしても仕方なくて、あくまで誠意を示すことが重要だと思いますが、少なくとも英語の表現の弱さが故に微妙なニュアンスが不足していて誤解を招いたり、表現が正確でないために範囲外のことまで認めてしまい、立場が弱くなるなどということは防ぎたいものです。

トヨタ社長は随行した通訳を通じての証言でしたが、北米社長(日本人)は英語での証言。北米社長なんだから英語での証言は当然だとしても、やはり通訳を通じた証言という迫力のなさ、ネイティブでない英語の弱さはあるなぁと思いました。まあ、仕方ないのか。通訳を使って創業家系のプリンスを守りたい気持ちもわかります。

僕は大学では機械科だったので、車会社に勤める友人が結構いるのですが、聞けばリコールすれすれの問題をお客様サービスと称して定期点検の時にさらりとメンテしてしまうことは結構あるらしいです。最近ではプリウスのECU改修がその例ですね。ある意味習慣化してしまっていて、何とも思わなかったのかもしれませんが、こういった企業の姿勢は、一度問題が起きれば、リコール隠しではないのかと疑われても仕方がないように思います。

例え現地法人を設立して雇用を生み出しているとはいっても、所詮他人の庭で商売をしているのだし、アメリカの自動車会社をこてんぱんに負かした上で商売をしているのですから、前提が非常に繊細な土台の上に成り立っているわけで、誠実であることをまず心がけなければいけないはずです。誤解の無いように一つ一つの事例に対して丁寧に説明責任を果たさなければいけないし、こうやってクレームの芽を摘んでいかなればいけないでしょう。

最近はトヨタのリコール問題がアメリカでかなりホットな話題なので、研究室でアメリカ人と会うと結構肩身が狭いです。この話題になると、自分は悪くないのに、なんか自分まで巻き添えを食らっているような気分です。何でいちいち日本の企業文化を僕が釈明しなければいけなくなるのでしょうか。

はやくほとぼりが冷めることを期待します。

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スイス人のメンタリティ

研究室の中には、当然ながらスイス人が何人かいるのですが、フランス語圏、ドイツ語圏が地元のスイス人の割合は、半分半分ぐらいかと思います。スイス全体の70%がドイツ語圏で、大学がフランス語圏にあるので、まあ、それぐらいの割合になるでしょう。

僕はドイツ語が全くわからないのですが、発音でドイツ語を話していることの判別ぐらいはつきます。しかし、それがスイスジャーマンなのか標準ドイツ語なのかの区別はできません。

で、スイスに来て間もない頃、ドイツ語を話している友人に、何気なく「君はドイツ出身なの?今、ドイツ語話していたようだから。」と聞いてしまいました。スイスの70%がドイツ語圏であることをすっかり忘れていたのです。

すると、彼は「いやいやスイス出身だよ。でも知ってるかい?スイスジャーマンにドイツ人なのかって聞くのは、結構微妙な質問なんだよ。」と答えました。聞けば、ドイツ語圏のスイス人は伝統的に、あまりドイツ人が好きではないそうなのです。

「僕たちはドイツ語を話すけれども、標準ドイツ語みたいに早くは話せないし、発音もかなり変わっているだろ?それに、独特のドイツ語を使うのは話すときだけで、それを書き記す時は、標準ドイツ語しかないんだ。まぁ、これは一般に言われていることで、自分達を冗談半分で揶揄するときによく使う例えなんだけどね。」とのこと。

というわけで、嫌いと言うよりは、若干劣等感にも似た感情に由来する嫌悪感なんだなぁということがわかりました。

僕は「独特の文化があることは別に悪いことではないし、スイス人は勤勉で国も豊かなんだからもっと自信を持ってもいいんじゃないのかなぁ。」と答えましたが、何かしらスイスの文化に関する問題を指摘されたとき、もしくは、ただ単にスイス独自の文化を指摘されたときですら、罪悪感を感じてしまうのがスイス人のメンタリティなんだと思います。

スイス銀行に世界各国の金持ちが脱税のために資産を隠しているとか、ローザンヌでシーフードレストランを探すのは大変だよねとか、なんでこんなに物価が高いのとか、ミナレット建設を禁止しちゃうなんてスイス人は保守的だよねとか、研究室のカフェタイムの学生同士の話では、スイスの独特の文化で話題は持ちきりなのですが、何となくスイス人はそれを真面目にとらえてしまい、自分たちの問題として、真剣に考え込んでしまう傾向が多いように思います。

まあ、とても控えめで、真面目な人たちなんです。自信に満ちあふれたアメリカ人とは対照的です。

そんな人たちですから、物事に対する意見をストレートに述べてしまうドイツ人が攻撃的であまり好きでないというのも、わかる気がします。日本の文化に理解が深いのも、この湿っぽいメンタリティが影響しているのではないかと思います。

ヨーロッパは狭いですが、文化がモザイクのように入り組んでいて、全然ひとくくりでは語れないことを最近は特に実感します。そんなわけで、「ヨーロッパの人達は○○なの?」という質問は最近自然としなくなりました。

嫌われるドイツ人移民

http://www.swissinfo.ch/jpn/detail/index.html?cid=8308854

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TV

NHKスペシャル ~メイド・イン・ジャパンの命運~

http://www.nhk.or.jp/special/onair/100124.html

CELL REGZAの開発、入社以来一度だけ体験した開発現場が昨日のように思い出されました。やってることは、ほとんどQRIOの開発と同じでした(笑)。発表会の1週間前になってもちゃんとソフトが動かないことなんて、それまでに前例のない商品を開発すれば、当然のように起きることだと思います。裏方では、どれだけのプログラマが徹夜で奮闘していたことでしょう。

それにしても、ありもののチップ同士を接続するだけの回路設計や製品の組み立てはもう日本でやるべきことではないように思います。あと、テレビのためだけに専用の回路を組んで開発する時代は終わりだと思います。現にパソコンで普通にテレビが見られるのに、なぜテレビだけのために専用の機器を開発する必要があるのでしょうか。

専用の回路を組んで開発するのならば、それなりの利点を示せないと駄目なはずです。しかし、専用機器のはずなのに、現状の液晶テレビはPCでテレビをも下回る操作性とレスポンスです。ありえません。

組織に昔ながらの技術者が残っているから、なんとか彼らを使わないと仕方がない、なんてことを言っていたら、きっと会社はつぶれます。年齢が進んでから他の技術分野に進出するのは困難かもしれませんが、新しい時代の技術に適応できない技術者は、その技術の分野から退場してもらうしかないと思います。経営者の視点とは、きっとそういうものだと思います。

別に技術の分野に限ったことではありません。もはや時代遅れとなった小売り業態である百貨店業界では、猛烈なリストラをやっていますし、希望退職者が殺到しているのです。

それなりに時間が経つと、自然と組織というのは肥大化していくものです。会社などは特に。すると次第に、商品開発という本来の目的以外に、組織の維持、人員配置という問題が、組織の意志決定を左右する条件にのし上がってくるだろうと思います。こうなると、本来商品開発の手段であった雇用が意志決定の目的となってくるのは自然の流れです。考慮すべき条件が増えて、健全な判断がしにくくなるでしょう。

その点、大学の研究室は比較的健全な組織が保たれているのではないかと思います。それは、システマチックに人員が入れ替わるが故に、新陳代謝が会社の組織より激しいからです。その分、技術の蓄積、研究クオリティの維持には多大な努力が必要と思いますが、新しいことへの取り組みという点では、フットワークが軽いことには違いありません。もちろん、研究室を率いる教授のやる気次第だと思いますが。

さて、CELL REGZAですが、1台100万円。僕にはなんか聞き覚えのある商品コンセプトだなと思いました。低価格競争に業を煮やし、日本の技術力でしか実現し得ない高付加価値の高みを目指す、というものです。そうそう、QUALIAです。しかし、これでは単体の利益率は高くても、大抵の消費者にはtoo much。したがって売り上げが望めないわけで、それでは大企業の雇用を維持することができない。

だから結局ボリュームゾーンの商品を作って大きなキャッシュフローを生み出さないといけない。そして、低価格競争に巻き込まれながら自転車を運転し続けるという仕掛け。

どんな会社でも、商品企画の人たちの関心は、何を消費者に訴求するかということだと思います。やたらソキューソキュー言います。でも、もう大概の消費者は満ち足りているから、それほど欲しいと思わないんですね。それに、多くの人が満足できるからこそのボリュームゾーンであって、そんな高いお金を払ってまで付加価値を求めないのが、今のデフレ社会です。

この番組でも出てきました、アメリカ人の消費者は台湾のEMSブランドのテレビと日本製のテレビのクオリティに違いは感じないのです。そして、ある程度のクオリティがあれば、後は安ければそれでいいと言うわけです。

技術者としては面白くない話ですが、ボリュームゾーンの商品を無難に作り、新興国で売りさばいて雇用を何とか維持するというのが、日本の製造業の現状だと思います。

では、何に活路を見いだすべきなのか、一時はCPUやOSの技術を握るアメリカの独壇場と言われた分野も、今や雲行きが怪しいです。インテルのCPUは十分すぎるほどに処理能力が上がって、低価格のラインアップでも十分に使えるし、OSも組み込みに使うのならばlinuxで十分。携帯ならAndroidもあるしという状況です。

あえて製造業のお手本を探すなら、Appleなのかもしれません。Apple独自のOSであるMac OS(iPhone OS)を全ての商品に共通に組み込んで活用することで、開発のコストを下げると同時に、Windowsには実現できないUIによって、他社の追随を許さない独自の価値を引き出し、差別化を実現する。ソフトウェア処理能力を最大限に生かすことで、回路は汎用のコンピュータと同じオーソドックスな設計でシンプルにし、製造の工程と原価を最大限に減らす。無駄に商品のラインアップを広げずに、iTunesなどのコンテンツビジネスと結びつけることで、最低限のヴァリエーションから最大限の価値を引き出す。ハードウェアデザインとユーザエクスペリエンスに最大限の労力を費やし、製造はEMS。

外に見えるコンセプトだけでも、日本企業が学ぶべきことは多いように思います。見真似でもいいから、参考にするべきではないでしょうか。

ていうか、コンセプトレベルではどの日本企業もやろうとしていたんだろうと思いますよ。特にどこかの会社なんか、コンセプトレベルでは上記のようなことは、ほとんど全てスローガンとして何度も聞いていたような気が。。。

しかし、リーダーシップを持ったカリスマの存在が無かったが故に、萌芽的技術は大組織の中で派閥同士の争いに巻き込まれてつぶれていった、といったことが現状に至った一つの原因ではないかと思います。他にも、技術者にセンスがなかった、大企業が故の倫理観が足かせとなった、といったこともあるかもしれません。

肥大化した帝国、失われた革新――元Microsoft社員の証言

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1002/15/news065.html

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シーシェパード

日本のニュースでは毎日紙面を賑わせているように思います。

僕の意見としては、別に捕鯨やめちゃっていいんじゃないの、という感じです。

マグロでも世界的に肩身の狭い思いをしているのに、これ以上日本の水産業のイメージを落とすのもいかがなものかと。僕は別に鯨肉を食べたいとも思いません。鯨の脂やヒゲで何かを生産する時代でもないでしょう。

それに、調査するだけなら別に殺さなくてもいいんじゃないかなぁと思います。増えすぎたら、数のコントロールのために捕獲する、というのはいいかもしれませんが、それなら、もっとそのデータを前面に出して主張しないと理解されません。鯨の生態調査のために、何を食べているのかを調べるには、殺すしかないのでしょうか。

シーシェパードの行為は非常に見苦しいですが、日本政府の対応が及び腰、声が小さいだけに、彼らの活動の宣伝のためにうまいようにメディアを利用されているだけのようで不満です。メディアは、シーシェパードの抗議行動の批判ばかりをニュースに取り上げるんじゃなくて、本当に日本にとって捕鯨が必要なのかについて議論するべきだと思います。

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バーゼルへの旅

昨夜はウィーンフィルのコンサートで、一晩だけバーゼルに行ってきました。演奏会のあとに電車で帰ってくることもできたけど、1時過ぎになっちゃうのでホテルに宿泊して、朝、直接大学に行きました。

バーゼルはてっきりフランス語圏かと思っていたら、ドイツ語圏で参りました。ドイツ語はまったく勉強したことがないので、本当にわからない。さらに、ドイツ人みたいにあまり英語話さないし。まだ、フランス語の方がマシと思えるのは、今までそれなりに勉強してきたからでしょうか。

バーゼルに着いたのは夕方だったので、全然観光をする時間はなかったのですが、とりあえず、ローザンヌよりは遙かに大きくて、店も充実していて都会だということがわかりました。ショーウィンドウも心なしかオシャレな感じ。また後日ゆっくりと訪れることにします。

今回のウィーンフィルのツアー計画を見ると、ベルリン、アブダビ、リヨン、バーゼル、フランクフルト、ケルン、エッセン、ブリュッセル、ハンブルグ、ランダース(デンマーク)、パリ、ロンドン、という感じで、やはりバーゼル公演と逃すと追いかけるのは大変そうだったので、まあ、平日に頑張って行ってきた甲斐はあったかと思います。

しかし、1カ所だけアブダビというのが挟まっているのが印象的。いかにもバブルの余韻を残しています。

さて、ウィーンフィル。印象としては、バリバリ楽器を鳴らすなぁというのが一番でした。ヴァイオリンはこんなにガリガリ弾けるんだ、という驚きです。あとは、うねるように、有機的に各パートが調和を作り出し、なんか鳥の群れが空で飛んでいるときのようなイメージでした。個人個人は自由に演奏しているように見えるけれど、それできちんと音が揃うのがすごいなとも思いました。

音としては、なんかとても若いオーケストラのような雰囲気です。エネルギーに満ちあふれていて、圧倒されます。毎回こんな演奏をしていて疲労しないのだろうかというぐらい、本気の演奏でした。うねると書きましたが、本当に、メロディーが川の流れ、もしくはオーロラのように軌跡を変えながら湧き出してくるという感じです。四角四面の音楽と対極をなしているのが、ウィーンフィルの印象でした。

前プロがいきなり田園で、かなり長時間の前プロになりましたが、好きな曲だったので良かったです。でも、自分が演奏したいかと言えば??です。こりゃ練習の割に合わない曲だなぁということがわかりました。聞く分にはいいけど、きちんと演奏するのは大変そうです。

あとの曲目は、僕の苦手なフランス印象派の曲達です。「海」と「ダフニスとクロエ」を続けて聞いて、若干食傷気味になりました。確かに絵画の印象派と同じイメージが、音楽で実現できていることに大きな驚きを覚えますが、印象派そのものがあまり僕の趣味には合わないのかも。

3曲を続けて聞くと、田園は、実はベートーヴェンの時代なりの印象派を実現してみた音楽じゃないかと思えてくるのが面白かったです。

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